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駐在員レポート
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季刊誌SIBA(静岡県国際経済振興会)
駐在員トラブル日記

【2000年3月】
                                            篠原清志駐在員
 1997年3月にシンガポールに赴任して以来、東南アジアは、タイの通貨危機に端を発した経済危機や、インドネシアの動乱など、社会・経済が大混乱しました。こんな中、初めての海外生活で経験した失敗や恐いことなど、私のトラブル日記をご紹介します。

・1997年6月2日 香港 −あっ、鞄に手が−
 香港は、中国への返還を1ヶ月後に控えてにぎやかでした。セントラル地区の訪問先にお邪魔するまでの時間つぶしにとあるビルに入ってエスカレーターに乗りました。登りきる少し手前で鞄を掛けていた左肩がやけに重く感じます。と見ると、後ろに乗っていたワイシャツにネクタイ姿の中年男が、私の鞄のファスナーを開けて、鞄の中に手を入れているのではないですか。「なにをしている!」(日本語)と怒鳴りつけ、鞄の中をチェック、何も取られていないことを確認。その男を捕まえようとしましたが、すばやく逃げられました。エスカレーターがそれほど長くなかったため助かったようです。以後、気楽に鞄を肩にかけることはしなくなりました。

・ 1997年6月24日 シンガポール・チャンギ空港 −別のパスポートでもスイスイ−
 クアラルンプールへの出張のためチャンギ空港へ向い、チェックイン、出国管理のゲートも何も問題無く通過、搭乗券も半券を切られ、搭乗までの30分を待合室で待ちます。この時、マレーシアの入国カードを書くのですが、パスポート番号を確認するためパスポートを開いたところで、頭の中が真っ白になってしまいました。何とパスポートは妻のものだったのです。急いでマレーシア航空の係員に説明。彼が出国管理のゲートまで付き添ってくれました。出国管理官は、パスポートの写真を見ながら「あなたと奥さんはそっくりだ」の一言で苦笑いしてシンガポールに入国させてくれました。チェックインしていた荷物が出てくるのを、広い荷物受け取り場で一人わびしく待ち、荷物が出てきたところで再びチェックインカウンターの所に行きました。少し待つと、アパートからタクシーで駆けつけてくれた妻が、私のパスポートを持ってきてくれ、2時間遅れの飛行機に乗ってクアラルンプールに着きました。妻は、出国管理官の言葉に「どこが似ているのよ!」と憤慨。私はというと、マレーシア航空やチャンギ空港の手際良い対応に妙に感心してしまいました。

・ 1997年9月9日 ベトナム・ホーチミン市 −衆人監視の中の窃盗−
 SIBAの産業視察団に随行していた時のことです。我々の乗ったバスは、夕方、交通事故を原因とする渋滞で、前に進むことができなくなりました。とその時、「あっ、ヘッドライトを盗んでいくぞ!」 誰彼ともなく我々は声を上げて、唖然とするばかり。前に止まっていた大型トラックの荷台から、荷台に積まれている小型トラックのヘッドライトを盗み取った男が降りてきたのです。この男は、その十数分後にも現れ、今度は、ヘッドライト用のプラスティックの型枠を盗み取り、仲間のオートバイに飛び乗って、どこへともなく走り去って行きました。この間、渋滞で道を埋めた何百という人々が、目撃していましたが、興奮しているのは、我々日本人だけでした。
 また、宿泊したホテルの日本人従業員からは、「ホーチミンでは、盗まれたお客さんのパスポートやクレジットカードなどは、警察である程度のお金を出すと戻ってくる事がある。」などという話も聞きました。ホーチミンは、民衆のパワーを強く感じる街ですが、滞在中高度の緊張感が必要なところです。

・ 1997年9月から11月 シンガポール −スモッグに沈む街−
 インドネシアの焼畑が主な原因と考えられるスモッグにシンガポール、マレーシアは悩まされました。シンガポールでは、ヘイズ=靄などというソフトな言葉を使いますが、毎日毎日、焦げくさい臭いと、50m先も満足に見えない状態にうんざり。息子は、喘息になるし、テレビに映し出される汚染指数に一喜一憂しながら、外へ出たり、室内に閉じこもったりという毎日でした。欧米企業や日系金融機関では家族に帰国命令を出したところも多く、きれいな国で評判のシンガポールも隣国からの煙にはお手上げでした。

・ 1998年2月23日 ニュージーランド・オークランド −電気がない−
 長泉町と姉妹都市になっているワンガヌイ市を調査するためニュージーランドに出張。北島の玄関で最大の都市オークランドから入ったのですが、この時オークランドは大停電の真っ最中。市の中心部は人影も少なく、消防車や救急車がサイレンもけたたましく走りまわり、レストランなどもほとんどやっていません。ホテルのエレベーターも動かないため、荷物を持って6階まで歩きました。夜何もすることも無く真っ暗な部屋の中で、電気というライフラインが切れた都市生活がどんなにか惨めなものか思い知らされながら寝ました。次の朝、また荷物を引き摺りながら1階まで降りました。オークランドの停電はその後数週間続いたといいます。

・ 1998年5月 ジャカルタ騒乱への対応 −緊急事態発生−
 3月のスハルト大統領再選から各地で起きていた混乱が、10日過ぎから首都ジャカルタにも波及、何か起きそうだと思い、14日午前、ジャカルタ近郊に立地している県関係企業に電話を入れました。この時、どこも大きな混乱の中にいるという印象はありませんでしたが、シンガポールに避難してくる場合には、県事務所が支援する旨伝えました。
 ところが、午後になると市内は騒然、日本人学校の子供たちが帰宅できなくなったり、華人への襲撃のニュースが入ってきます。秘書に、県関係者がシンガポールに避難してくる場合に備え、各ホテルのコンタクトパーソンのリストなどを作成させました。
 今回は、日本政府の対応も早く、日本人の多くは政府のチャーター機で脱出しましたが、残った日本人用に自衛隊機がシンガポールに待機することになり、在シンガポール日本大使館からは、自衛隊機が出動する時には、県の駐在員にも応援をお願いしたいとの依頼が有って、パスポートを携帯しての24時間待機の日々が1週間あまりも続きました。

・ 1998年8月17日 インドネシア・ジャカルタ −騒乱の後−
 この日はインドネシアの独立記念日で、混乱を予想する向きもあったのですが、落ち着きを取り戻しているとの情報でジャカルタに入りました。ところが、スカルノ・ハッタ空港では、はちまき姿の若者がデモをしています。ミャンマー学生運動のリーダーを迎えにきているとのこと。少々不安。市内では、県関係企業の駐在員ほか何人かの日本人に話を聞きました。皆、それほど大きな混乱ではなかったといい、街も落ち着いてきているとの印象を持ったのですが、暴徒が暴れまわった北部のコタ地区へ入った時には、タクシーの運転手が、ドアロック、窓を開けないことを私に命じ、それまでとは打って変わった緊張感で運転していました。

・ 1998年12月14日 ネパール・ポカラ、カトマンドゥ −病に倒れる&テロの脅威−
 静岡県が海外協力の一環としてネパールから受け入れた技術研修員の帰国後の活動を調査するためにヒマラヤの麓を訪ねました。
 前週は同じ目的でバングラデシュのダッカを訪問。疲れが残っているところに、カトマンドゥの大気汚染の影響か、 ポカラに入ると喉が痛く、咳、痰がひどい。技術研修員が活躍している山の村まで歩いたりしたら、体は立っているのも苦しくなってきました。体温を測ると39度を超えています。JICAのスタッフが、カトマンドゥにいる日本人看護婦さんに電話をかけてくれ、症状を説明、肺炎の可能性が高いということで急遽カトマンドゥに戻りました。カトマンドゥで白人の医者に診てもらい、処方された薬を飲んで快方に向いました。翌朝は、まだ暗い4時過ぎに起き、電話インタビューでSBSラジオの番組に生出演もしました。
 シンガポールに戻る飛行機は昼過ぎでしたが、この17日は、毛沢東主義を掲げ、外国人排斥を主張する過激派がテロを予告したということで、タクシーは走っておらず、ホテルで手配してくれた力車に乗って早めに空港に向いました。途中にある店は一軒も開いておらず、車もほとんど走っていなくて、道端には意味もなくネパールの人たちがたくさん立っています。やせて若いとはとても言えない漕ぎ手の力車に乗った私は、せき込む口をハンカチで押さえながら、石でも投げつけられるのではないかと冷や冷やでした。防弾チョッキに身を固めた警察官を多く見ながら無事空港に到着しました。

・ 1999年3月8日 インド・ニューデリー −日本人はぼられる?−
 東南アジアの通貨危機の影響も受けず経済成長を続けるインド。ニューデリーは、予想していたよりも整然としています。
 しかし、ホテルのタクシーは、ラジエターが水漏れで、止まるたびに水を補給。それではと、輪タクに乗ると、運転手は、「おまえが行きたい地区は、今日はデモがあって入れない(事実ではない)。俺がいいところに連れていってやる。」と言われたり、乗る前に目的地まで5ルピーで話がついていても、降りる段になると100ルピーなどと分けのわからないことを言って騒ぎ出す。私は、5ルピー札を投げつけて走り去りましたが、3回別の輪タクに乗って3回ともこんな状況でした。商店では、どういう分けかボールペンをくれとねだられます。一般のインド人は、富士山のことも知りませんが、進出しているスズキの事は皆よく知っていました。

・ 1999年9月4日 ミャンマー・ヤンゴン −知らないうちに荷物検査−
 タイのバンコクで、民主化運動をしているという学生たちが、ミャンマー大使館を占拠した事件の直後にヤンゴンに入りました。空港の入国審査官は、ご多分にもれずいやな感じ。預けの荷物を受け取ると鍵がなくなっています。税関で鞄の中を開けられましたが、訪問先への土産の包み紙が無残にも破られています。鍵を壊され何者かに物色されたようでした。緊張した思いを持ちながらホテルへ。街の中は静かで落ち着いていますが、他のアジアの大都市と違いオートバイがほとんど走っていないのにびっくりしました。
 一般の人たちは、軍政下で押さえつけられているという感じではなくて、にこにこして人懐っこく、バンコクの事件の事も誰も知らないようです。
 携帯電話が禁制品であることを知らずに持ち込んでいましたが、在留の日本人から、出国の時に見つかると厄介であるとの話を聞かされました。入国時の事があったので不安でしたが、何ごともなく出国することができました。

 その他にも、バンコクに立地している県関係企業の駐在員の方が、早朝まだ暗いうちに高速道路を走っていた時、タイ人運転手が突然意識を失ったため、後ろからハンドルを操作したりして何とか車を停めたという危機一髪の話とか、ベトナムで日本人がズボンのポケットをナイフで切られて財布が取られたり、とそんな話にも接することが多い毎日でした。
 ただ、海外は危険といっても、(こちらの人々にとって日本は、地震、原子力事故、学校での殺人やオカルト集団の事件などあって、かなり危ない国との印象が強いようです。)人が危ないというところには近づかなければ、それほど危険な事はないということも実感として感じています。

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